01.30
舳ノ峰番所
舳ノ峰番所(へのみねばんしょ)
舳の峰番所峠の由来
広田から宮に通じる県道の途中に重尾峠がある。
かつては「舳の峯峠」といい、平戸城下から福岡、長崎方面に通じる平戸往還の要衝でもある。それにここが平戸藩と大村藩の藩境だったから旧藩時代に旅人を調べる番所、つまり、関所があった。
番所役人には土着の近藤、八並氏が、ここが廃所される明治初年まで勤めていた。
往来の旅人を監視するのみでなく、天正14年(1586年)10月3日、平戸、大村の両家の藩界確立のため代表者の和議の会談を行ったところである。
すこし広田側に降ったところに当時の境石が残されている。
長い境石には「従是西平戸支配所」一つの境石には「従是西平戸領」と書いてある。
長い方の境石は、幕末藩祐筆、多賀南岐の書である。
この人は早岐小学校の前身、城腰小学校の初代主幹(校長)で多賀太郎氏の祖父である。
天正14年9月、大村純忠は、広田城主、佐々加雲の包囲した彼杵城を応援、迎え討った戦勝後、兵馬を練り、広田城、早岐城を攻略し、相浦城を衝かんと思ったが、平戸松浦家よりの使者の伝えに依り、平和的外交の処置が得策だと考えて、遠征の意を翻し快諾して、純忠は、家臣大村与一を、鎮信は長崎主繕を選び、その会談の場所は、二人が自然に出逢ったところと定めた。
そり出逢った所が此の地である。大村与一の発言によって「今、出逢ったこの峠を藩界にしよう。」
長崎主繕は「川棚峠までは平戸の領地故にそこが当然だ。」大村与一は聞かず、双方問答議論した末、長崎主繕は大村与一の論に折れて、舳の峯に境界を立てて解決したのである。
折れた長崎主繕の責任問題も問われた事であろうが、今から凡そ四百餘年も前の事である。和睦後、毎年一回両家親睦のため、互い此の地に使者を会合せしめたとの事である。
この舳の峯番所は平戸領内の南の関門を守る関所で、常に十数人の番所役人が詰めていて、通行人を厳重に検察した。
このためには必ず往来手形を持たなければならなかった。
この番所は、その昔、伊藤博文、木戸孝充、吉田松陰、坂本龍馬、高野長英、平賀源内、等々、蘭学、電気学、漢学等にゆかりを持つ達人達が、長崎を訪れた際、みんなここを通ったと言われ、由緒ある番所である。