2021
02.01

遠藤但馬守盛胤

人物, 武将, 歴史

遠藤但馬守盛胤

遠藤専右衛門の子と思われる。
相神浦家が平戸家に降伏する際、両者の実務的な周旋役に指名されており、平戸家、相神浦家にも信頼があったことを伺わせる。
特に遠藤氏の治世は評判が高かったとも言われ、逆にその跡を継いだ赤崎伊代の方が評判を落としたとの話もあるほど。
その後祀られた事も考えると、事実に近かったことを伺わせる。

元亀3年(1572年)に龍造寺家に内通しているとして、松浦九郎親に討たれる。
子の遠藤右近や次男爾五郎も討たれ遠藤氏は滅亡。
遠藤氏の亡き後、婿の赤崎伊代が代わって治めることとなる。

この件については、後の九郎の死と共に謎が多く、本当に遠藤氏が龍造寺に内通を行ったのか非常に疑問がある。というのも、このころ龍造寺は直接この地方に圧力を掛けるほど強大化しておらず、本格的な侵攻は1580年代になってからのことで、合点がいかない。したがって、考えられるとすれば相神浦松浦氏旧臣の排除と考えるのが普通ではないだろうか?

遠藤氏は大村氏や後藤氏の家人として書かれることもあるが、おそらく1560年の初めまでは相神浦松浦家の傘下として佐世保を治めていたのではないかと考えられ、松浦宗金とも繋がりがあったと考える。
この勢力を九郎親は嫌い、潰そうとしたのではないかと考える。
 
その後、松浦盛との相当原の戦い、東時忠による九郎親の殺害に繋がっていく。
九郎親が殺害されたのは、完全に計算が違ったものの、少なくとも相神浦勢力を潰す意図はあったと考える。

佐世保市竹辺町に「うたれがはい」と呼ばれる坂道があり、そこが最期の地とも、また、吉岡町の商業高校入口あたりを流れる小川も「夜討ち川」と呼ばれ、但馬守が謀殺された場所との伝説がある。
但馬岳の麓に但馬神社があり、今も地元の人々によって祀られている。

「武士の名は残りにけり野に山に
かばねは朽ちて草はむすとも」

— 盛胤辞世の句

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